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拠所

Leica MP / Voigtländer ULTRON 28mm F2 (HP5 PLUS)

まとまったものとしてはあまり書いていなかった宗教のことについて。最近インターネッツ界隈でも「宗教を見直そう!」みたいなことを言ってる人をちらほら見かけたりしたので。ぼくは個別の宗教について詳しく勉強したこともないしそこまでの興味も無いというのが正直なところだが、ある意味では強制的に宗教って何なのよと悩まされた境遇で育ってきたので、その辺を書いておきたい。

 父方の家は例の学会信者で、ぼくは(推定)学会三世になる。確認してはいないが間違いなく名簿上は信者ということになっているはずだ。そして普段のぼく自身の普段の言動を知っている人なら言わずもがななとおり、まあいわゆる敬虔な信者どころか、こんな感じのスタンスである。会社でとか、シャレが通じなそうな人とかには黙っているが、それなりに仲が良かったり笑い話につきあってくれそうな人には全然そういう背景もオープンに話している。ちなみによくネットで「この芸能人も学会員!!」みたいなリストを見かけるが、ガチなのはおそらく2、3割で、残りはまったくのガセか、ぼくのように親類が学会員だけど本人は興味なし、みたいなのだろうと見ている。

 お正月はなんか普通のご家庭がやってるような初詣とか行かずにナンタラ文化会館に行って超だだっ広い座敷で数千人が呪文を唱えているし、うちだけ新聞を2誌とってしかも片方の様子がおかしいしな、などなどと気づいたのは小学校に入った頃だったと思う。学会こそ正しいみたいなことを親は言っていたが、それを言うとおりに信じることはできなかった。5、6歳でもそのくらいの判断力があるらしいから案外子どもは侮れない(自分が凄いという意味ではないよ念のため)。
 小学校の頃はイヤイヤで勉強会みたいな行事などに参加したりしていたが、中学に入った頃にはもう一切行かなくなった。大学受験のときには学会の刺客がうちにまできて「困ってることがあったら云々」と言ってきたので、この時間が勉強の邪魔になり惜しいのでお引き取りくださいと返すこともあった(実際にはセガサターンのスパロボに夢中だった)。大学に入ってからは東京のアパートの住所が情報漏洩したようで、ちょいちょい郵便ではなく刺客が直接訪問したらしき気持ち悪い文章の手紙がポストに入っていた(当時写真を撮っていたので見たい人には見せます)。大学では自分と同じ学会三世の不遇を語り合える友とも出会ったりした。引っ越してからは住所を学会に教えないように、と親に再三釘を刺し、それ以来接触は無くなった。あとはご存じのとおり、たまにネタにさせていただいている程度である。

 しかし、最近亡くなった祖父が、生きているときにこんなことを言っていた、と弟から聞いた。

 あるとき祖父はガンを患い、人工肛門を付けることになった。ふつうに考えたら相当にショックだし、精神的にも堪えるだろう。ところが祖父は「現世での経験値が増えて死後のステージが上がるからラッキー(意訳)」的にとても前向きに過ごしていたのだという(学会的な死後の世界の解釈はよく知らないのだが、そういうシステムらしい)。まあとにかく、ふさぎ込んだり鬱々と周囲に当たり散らしたりというのはおそらくなかったようだ。
 話は前後するが、ぼくが祖父のもとを一人で訪れたときには、その街の昔の話や、ぼくの家系の話なども聞いた。炭鉱で栄えた頃の話とそこでどんな仕事をしていたかとか、昔はどこに住んでいたとか……。そんな話の中でちょいちょい学会への感謝の言葉を差し込んでくるのだが、ネットのコミュニティみたいなのも存在せず、田舎者のムラ社会的な意識が全盛の頃こそ、宗教というのは部活というかコミュニティのような一定の役割があったのだろう、と察することができた。今でこそ知らない土地に行く前に下調べできるし、何ならマイミクさん〜とかTwitterの相互フォローが〜とか全然ある話だが。
 そういったことを通じて、もちろん他人へ迷惑をかけないというのが大前提ではあるが、宗教というのは頭ごなしに否定するものでもないし、その人が救われてるなら別にいいじゃない、と感じるようになった。ぼく個人が学会に入るとか、うざい折伏オールオッケーなどと思うという意味ではない。他人に迷惑をかけずに自己の精神のあり方と同胞とのコミュニケーションツールになっているのであれば、それこそそこに価値を感じ、金を使ったって結構ではないか。人の心を救う仕組みを作って私腹を肥やす教祖と、ビジネスの仕組みを作って儲ける会社社長と、国に納める税金の多寡以外何が違うのか(ちなみにぼくの働くグループの社長の年収を聞いて驚いたよ…ヘタな宗教より悪質かもしれない。笑い)。むしろ、宗教なんてバカと心の弱い奴がすがるものだ、搾取されてる!やめちまえ!なんて声高に主張している人と、さあ入信しましょう勤行をしましょうという人と、端から見たらそのいびつさの何が違うのか?
「宗教」を「科学」に置き換えたら?
「宗教」を「ネット」に置き換えたら?
「宗教」を「無宗教」に置き換えたら?

 そして、ぼくは自分が自由な考えができていると勘違いしている「無宗教教」の敬虔な信者だったのだ、と気付いた。これはとてもショックだった。
 だからそこからは、少なくともこのよくわからないご本尊にすがった状態である無宗教教から脱することを考えた。伊勢神宮にもお参りしたし、近所の神社にも行けばきちんと手を合わせるようになったし、一方で様々な国での旅行ではキリスト教やイスラム教の施設を見てリスペクトの精神をあらためて感じた。入信するのとは違うが、それぞれを肯定するようになった。気持ち悪いとは思うけど、父親がたまに「選挙はアレで」的に行ってくるのもハイハイ自分で考えて投票するからねといなせる。そしてもちろん今の若者におそらく一番支持されているであろう「無宗教教」の人だって、それはそれで人に迷惑をかけなければまったく問題ないと思っている。そういう意味ではぼくは雑食的、いわばとても典型的な日本人的宗教観になったというか、仏壇にチキンとクリスマスケーキ飾るくらい全然しますよって感じだ。まあどうにも某新興宗教の守護霊降臨ギャグだけはリスペクトできないが…(笑)。
 あと、一時期本気で考えていた学会への脱会届けの送付もしていない。たぶんこれをやればセイセイするのは間違いないが、それこそ親、親戚の元には本部からの何かしらがあるかもしれないという懸念からだ。先送りという答えも大人の選択肢にはあるのだ。だからいまだにぼくは学会に名簿がある(はず)。でも、もうそれでもいいと思っている。父の年齢になって、今更改宗するなどはよほどの体験がなければもう無理なのだ。あれはたぶん理性や理論の問題ではない。だからどうこうする気もない。ただ妻や将来の子どもに関してはご勘弁願いたいし、何かあれば徹底抗戦する気もある。

 ああ、そういえば今後の悩み事がふたつある。
 ひとつは、うちの両親、特に父親が亡くなったときは「友人葬」にすべきなのか。
 本人の意向はもちろんそっちだろうが、喪主となるはずのぼくとしては非常に辛い。本人は死んでるからわかるもんか、という意見もあろうが、父の周囲の人や親戚のことを考えると答えが出ない。
ちなみに友人葬というのは、学会式の葬式で、簡単に言うとお坊さん不在で執り行う葬式だ。飾り付けが独特で、またお経も学会のアレなので一発でバレる。坊さんも戒名も無いので非常に安価に済むというメリットもあるけど。
 ※本当はこの友人葬の体験もまた長々と書けるのだけど今回の主題ではないので省こう

 もうひとつは、妻の両親にはうちの親が学会員と伝えていないこと。ネットで言われるような非常識な折伏行為などは一切しない(当たり前だ。仮にそんなことしたら許さぬ)から実害もないが、いつかバレたときにどう思われるか不安である。特に前述のとおりうちの親が先に死んだら葬式で確実にばれる(笑)。この問題は自分の中で常にわだかまり続けている事案で、今後十年二十年くらいは先送り先送りとなるのだろう。

 最後に、唯一、そんな八百万の神をリスペクトするぼくが本気で祈る神がいる。それはウンコが漏れそうなときになぜかトイレまで保ってくれ保たせてください無意識的に祈ってしまう、あの謎の神の存在だ。特定の神を想像して祈ってるわけではないので、仮に「ウンコ漏れ止め神」とするが、これにだけは敬虔な祈りを捧げることが年に数回は、ある。

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